闘う一家の母親役・島野

燃える男がやって来た
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鉄拳指導、陰でフォロー

 中日の2度目の監督に就任した1995年秋、スタッフ作りに奔走する星野は求める人材の条件をこう話した。

 「人間が好き。野球が好き。そういう男が欲しいんだ」。その代表とも言える男がヘッドコーチの島野だった。明大から中日に入団した星野は、大阪遠征の際、南海のプレーヤーだった島野と出会う。その時、島野が生涯のパートナーとなることを予感した。

 中日時代の星野の野球を見ると、家族主義的な部分が浮かんでくる。父である星野がいて、母がいる。子供たちが成長して、闘うプロの集団となっていく。激しく叱り、鉄拳も飛ぶ。そして時には涙する。母は息子たちの成長を見守り、父をフォローする。かつて日本にあった一般的な家庭のスタイルが星野野球にあてはまる。そんな中で母の役割を果たしてきたのが島野だった。

 コーチ、裏方、選手。島野は悩みや不安を抱えていそうな雰囲気を察知したらだれとでも話し込んだ。ガンコ親父の星野の決定にチーム内に不満の渦が広がることもあった。そんな時は島野の出番だった。

 阪神の監督就任要請があった時、受諾に向けて真っ先に掲げた条件が島野の入閣だった。阪神はOKしたが、島野はすでに中日の来季の2軍監督として発表されていた。当然、中日側は態度を硬化させた。自ら譲渡の申し入れにいった20日、中日に断られた。無理は承知している。それでも星野はあきらめない。「オレとシマちゃんは夫婦みたいなもんやからなあ」。猛虎復活へ星野野球を押し進める上で「生涯の伴侶」は唯一無二の存在だからだ。

 39歳でコーチ経験のないまま監督に就任。指導者の難しさを肌で感じつつ、若さと情熱で突っ走った。2度目の監督業は経験を踏まえて手順を踏んだ。そして今年、夏場を迎えたころに星野はこうポツリと漏らした。「権力のポストに何年も同じ人間がいることは組織としてはマイナスが多いんだ」。秋、自ら招へいしたヘッドコーチの山田に監督を禅譲し、中日のユニホームを脱いだ。星野の根底にあるのは「チームあっての自分であり、みんながいてこそ自分がある」という思いだ。新天地の阪神でどんなタクトを振るうのか。星野仙一に興味は尽きない。 (敬称略)



2001年12月23日付紙面掲載 


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