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戦術のためなら愛弟子も放出
涙で大豊にトレード通告星野に試練が訪れたのは復帰2年目の1997年、ナゴヤドームが完成したシーズンだった。キャンプイン直前、白血病と闘っていた最愛の妻、扶沙子さん(享年51)が死去。人生で最も大きな悲しみが襲った。そして迎えたシーズンは苦闘の連続。前年までの狭いナゴヤ球場で威力を発揮した本塁打依存型の弱点がワイドになったドーム球場に暴露される。59勝76敗1分けで監督生活初の最下位。屈辱にまみれた。 もがき苦しんだシーズン終盤。しかし星野は水面下で早々と動き出していた。長打力の象徴でもあった大豊のトレードである。大豊に興味を示していた吉田阪神との間で交渉が始まったのは9月に入ったころだ。折衝を繰り返した末、大豊、矢野と関川、久慈の2対2のトレードがまとまった。守りを固め、機動力を使えるチームに生まれ変わらすための大手術だった。 投手出身の星野は本来、バッテリーを中心とした守りを固め、打線に軸をつくった上で戦いを進めるオーソドックスなスタイルの野球を身上としている。ナゴヤ球場の特徴を生かすため、長打力重視のチーム編成になっていたが、ここでの切り替えは早かった。ただし、大豊は最初の監督就任時から手塩にかけて育ててきた代表的な選手。チーム改革とはいえ、トレードに出すことに大きな抵抗があった。「そりゃあ悩んださ。しかし、このトレードはチームのため。そして大豊のためにもなる」。決断した星野は最後の遠征先となった横浜のホテルで大豊を部屋に呼んだ。 「阪神で頑張ってこい!」。涙ながらにそう話すと大豊の目にも涙があふれた。この時、2人のやりとりを黙って見つめていた男がいた。ヘッドコーチの島野だった。 島野との出会いは入団1年目のことだ。大阪遠征の時、中日の先輩に引きあわされた。中日から南海に移籍して、外野の定位置を確保していた島野はミナミの小料理屋で初めて星野を見た時「この男は必ず指導者になる」と思ったという。そして星野は3歳年上の寡黙な島野に「運命」を感じ取っていた。 |
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2001年12月22日付紙面掲載
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