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巨人への戦力集中許さず
トレード、外国人獲り、執念で対抗星野は阪神監督の就任会見で「対ジャイアンツこそ私の人生」と言い切った。現役―中日監督時代を通じて巨人戦にはことさら燃えた。 1968年秋のドラフト。「田淵(法大)を指名できなかったらキミを行く」と巨人の担当者に言われていたが武相高の島野修が指名された。「シマとホシの間違いじゃないのか」。星野が当時発したというフレーズが今も語り継がれている。ただ、裏切られたという思いだけで「打倒巨人」を掲げ続けたわけではない。 岡山は阪神ファンが多い。倉敷出身の星野も少年時代は熱烈な阪神ファンだった。牛若丸と呼ばれた遊撃吉田の華麗なプレーに憧れ、力を振り絞って巨人に立ち向かう村山の姿に心を打たれた。中日監督時代、事あるごとに「阪神が強くならないと球界は盛り上がらない」と話した。巨人に対抗するチームがあってこそ、球界の発展がある。その思いこそが「打倒巨人」の原動力だった。 2期11年監督を務めた中日時代、その巨人に補強面で猛然とキバを向いたことが2度あった。1度目は最初の監督就任直後の大型トレードだ。巨人がロッテ落合との交換話で先行していたことをキャッチした星野は激しく動いた。牛島というチームの顔的存在であるストッパーを放出してトレード成立にこぎつけた。血を流してまでこのトレードに固執したのは「巨人に落合を持っていかれたら、どうにもならなくなる」という思いからだった。 2度目の監督就任が決まった95年秋にも動いた。韓国球界NO・1右腕・宣銅烈(ソン・ドンヨル)の争奪戦である。先行していた中日に対して、長嶋巨人が水面下で逆襲に出た。そして契約寸前までこぎつけ、巨人フロントトップが韓国に出向いた。だがなぜか宣サイドに肩透かしを受け、手ぶらで帰国している。当時の関係者は「あれは星野のパワーがそうさせたんだ。執念だよ」と猛烈な巻き返しに出ていたことを明かした。戦力の巨人一極集中を許してはいけない。その思いが宣獲得への執念となる。99年、胴上げ投手を務めたのは宣だった。 |
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2001年12月21日付紙面掲載
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