チーム変革へ親会社にも取材規制

燃える男がやって来た
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戦う集団作りに妥協なし

 大阪市内のホテルで行われた監督就任会見。200人を超える報道陣を前に、星野は明らかに緊張した表情で猛虎再建を誓った。これから訪れるであろう数々の試練…。勝負の世界で生きてきた。楽観できる材料が少ないことは覚悟している。「勝負してきます」。15日に行われた名古屋での後援会パーティーでも珍しく険しい表情であいさつをしていた。

 「覚悟しとけ!」。1986年秋、最初の中日監督に就任した星野の第一声がこれだった。当時39歳。ほとばしる情熱がこの言葉に集約されている。緩みきったチームを再生させるには構造改革しかない。それはまた親会社が新聞社であるにも関わらず、マスコミに対しての宣戦布告でもあった。

 当時はロッカーや風呂場など球場内の施設ではどこでも取材OK。ある面、牧歌的な雰囲気だったが、なにしろ前年5位の弱者の集団。星野にはただの馴れ合いにしか映らなかった。徹底した取材規制。チーム機密の漏洩も許さなかった。親会社である現場の記者からの反発もはねつけた。「みんな平等だ」。戦う集団に生まれ変わらせるため、妥協の余地はなかった。

 その一方で早朝、深夜と自宅を訪れる記者を追い返すことはなかった。グラウンドでは厳しい取材制限を設けている。その分、足を運ぶ記者の取材は正面から受けた。ここに星野の筋を通す生き方が垣間見える。母のお腹の中にいる時、父は亡くなった。野球人としてサクセスロードをひた走ってきたが、礼儀を欠くことは決してない。父がいなかったから、とは言わせない…。少年時代からの母の強い教えがそこにあった。

 もちろんマスコミ対策は星野がとった改革の一部でしかない。就任直後、リリーフエースの牛島など4選手を放出。ロッテ落合とのトレードを成立させ世間をアッと言わせた。だが、誕生した指導者星野の真骨頂は次々と繰り出すこの手の派手な動きとは別のところにあった。 (敬称略)



2001年12月19日付紙面掲載 


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