|
| ||||
|---|---|---|---|---|
個性豊かなコーチ陣と監督間に亀裂…
米田投手コーチ退団今季、阪神のコーチングスタッフはまさに重量級で、それぞれに実績のある豪華な陣容になった。その人たちを束ねる星野監督も相当苦労はするだろうが、85年優勝時のコーチ陣も個性豊かで、吉田義男さんもまとめるのはたいへんだった。 それでも「一蓮托生」を掲げ、1年目に日本一になった。だが、翌年にはその一蓮托生に亀裂が生じた。Vの余韻を引きずりながらの86年シーズン。連覇を期待されながら、思うように進まぬ苛立ちがチーム全体を包む。それが監督とコーチの溝になって表面化していった。 かろうじてAクラス(3位)を保ったが、そのオフに激震が走った。米田哲也投手コーチの退団である。現役時代、350勝を記録した大投手は、85年の優勝時には中西をストッパーにし、それほど強くないスタッフをうまくやりくりして1年を乗り切った。ただし、それは翌年86年にも通用するとは考えていなかった。 例えば米田さんの言い分はこうだ。「中田良弘は85年は勝ち星を稼いだが、それを実力と考えてはいけない。割り引いて起用していく」。そのため米田さんは、吉田さんにこう提案したと聞いた。「まずシーズン130試合を70勝60敗で乗り切る方法を考えたい。貯金10を最低ラインで考えれば、優勝争いに加われる。だから負け試合用のローテーションも取り入れてほしい」。
だがこの米田プランに吉田さんは首をタテに振らなかったようだ。吉田の考えと、米田の考えは相容れることなく、自然と意思疎通を欠くことになっていった。最終的にすべての決定権は監督が握っている。1コーチの要望が却下されることなど、この世界では当たり前である。 しかし、米田さんはすでに悟っていた。もうタイガースでの自分の役割は終わったと。優勝に導き、2年目もAクラスを確保した投手コーチがシーズン終了を待って、チームを去った。一蓮托生内閣が崩れた瞬間。これも実力派の監督とコーチの関係ゆえに起きた悲劇だったかもしれない。 <写真=86年10月、吉田監督(左)同席のもと米田コーチの退団が発表された。右は岡崎社長>
|
||||
|
2003年1月17日付紙面掲載
| ||||
|
[星野への軌跡 目次] 阪神 | 中日 | カープ | 関西情報 | レジャー特集 | ライブラリーINDEX 野球 | MLB | サッカー | スポーツ | バトル | 芸能 | 社会 | 競馬 | ||||