西本氏…安藤氏…最後は吉田氏で決着

星野への軌跡

84年オフの監督交代劇

 84年オフの監督交代劇は複雑な思惑が絡み合い、混乱した。留任発表された安藤統男さんが、一度は辞任を決意。さらに球団側の説得に折れて続投の意欲を固めた裏で、西本幸雄氏担ぎ出しの動きが発覚。再び安藤さんの決意は萎えた。

 もう19年も前の話だが、実際に西本さんに阪神の監督をお願いしたいという話はあった。ただしこれは球団内部で動いたものではない。本社筋の動きであった。辛かったのは安藤さんと小津社長だっただろう。私は焦点が後任監督に移った際、小津社長について、西本邸を訪ねている。そして西本さんに断られたことも知っている。

 安藤さんという監督はチームを作るという点においては非常に長けた人物だった。顔はソフトでいかにも慶応ボーイという印象を受けるが、内面の激しさは相当だった。ベンチの中でもよく暴れたし、イスを蹴りまくったりもした。その激しさゆえに、本社、球団の動きにガマンならなかったのであろう。もし、あの時、安藤留任なら、また阪神の歴史も変わっていたはずである。

 さて、西本さんに断られたあとの監督問題は、球界を巻き込んだ。その年の日本シリーズ、広島―阪急のネット裏でもシリーズそっちのけで取材合戦が繰り広げられた、と聞いた。そして本命は村山実さんという流れでマスコミの方向性は固まっていた。

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 だが事実はこれと違った。吉田義男さんの2度目の登板。これが本社、球団のファイナルアンサーだった。今でも覚えているが、発表の朝、スクープしたのが日刊スポーツ1紙だけだった。

 複雑に絡んだ糸が解かれ、吉田体制が決まった。もし安藤さんが60年も監督だったら、西本さんが就任していたら。あの85年の優勝はどうなっていたのだろうか。つくづく不思議な流れを感じている。

 吉田義男さんの登場。常に攻める監督だ。勝ちゲームの流れになった時の采配、判断はすばらしかった。いつも先手、先手を取っていくアグレッシブな采配に導かれ、阪神は優勝に向かって突っ走った。激動の84年から85年。球団史に残るターニングポイントだった。

<写真=84年10月23日、吉田義男新監督(中央)とガッチリ握手をかわす久万新オーナー(右)と中埜新球団社長>


 本間勝(ほんま・まさる)1939年(昭14)5月1日生まれ、63歳。愛知県出身。中京商から58年、阪神に入団。60年5月15日の巨人戦でプロ初勝利を挙げ、同年13勝をマークした。66年に西鉄に移籍し、67年のオフに現役引退。実働10年で216試合に登板。28勝38敗、通算防御率2・86.引退後、新聞社に勤めスポーツ記者を経て、阪神球団に勤務。広報担当として活躍。名物広報として阪神の激動史に携わってきた。



2003年1月15日付紙面掲載


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