星野阪神の挑戦

    阪神 11―6 ヤクルト (4月26日・甲子園)
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這い上がってきた人間は強い

不器用ゆえに苦しむ片岡

 緩いゴロが一塁手ぺタジーニ、二塁手城石の間を抜けていく。決して満足できる当たりではない。それでも片岡は一塁塁上で2度3度、両手を叩いて喜びを表現した。2回裏、3―1と逆転した直後の1死一、二塁。3番打者の仕事をして大量9得点の一翼を担った。8回には右中間を破る会心の当たりを放つ。

 悩んでいた。苦しんでいた。FAで移籍し、打線の核にと期待されていた。だがリーグの違い、阪神の主力打者という重圧からスランプに陥っていた。初回の第1打席では1死三塁の先制機に初球を打ち投手ゴロに倒れた。同じ悩みを抱えていたアリアスが爆発的に打ち始めた。何よりも結果が欲しい打席だったのだ。「打てないと考えこんでしまうタイプ」。自分でわかっているだけに悩みは深かった。

 星野監督は試合前、あえて突き放すような発言をしていた。片岡が白髪が増えたようだと報道陣から聞くと「抜けないだけましや。もっともがいたらええんや」。とことん悩んで、そこから成長する姿を期待するからこそ出てきたコメントだ。

 「自分は不器用なタイプだから…」。首脳陣のアドバイスで打撃フォームを改造しようと思っても、なかなか踏み切れない。その片岡を優しい眼差しで見つめるコーチがいる。星野監督を陰で支える島野ヘッドコーチがその人だ。

 島野コーチも現役時代は不器用な選手だった。中日―南海、南海―阪神と2度トレードを経験している。最初の移籍はプロ7年目の1968年。シーズン中に南海へ移籍した。「当時監督だった鶴岡さんが島野を欲しがったんだ」。南海の主力打者だった広瀬叔功氏(日刊スポーツ評論家)は若き日の島野育夫外野手の姿を思い浮かべる。俊足強肩だが、盗塁死も多かった。広瀬氏は独身だった島野をよく食事にも誘ったという。「無口で不器用な人間が、こつこつ努力を重ねた。そして花開いた(広瀬氏)」。73年から3年連続ゴールデングラブ賞を受賞するなど、パを代表する外野手に成長した。野村監督時代に相手選手の癖を見抜く技術を学んだ。

 1球に対する集中力、観察力は、当時からずば抜けたものがあったという。今は星野監督を支えるへッドとして信頼を得ている。悩み、苦しみ、そこから這い上がってきた人間は強い。阪神の3番打者として、だれもが認める実績を作る日まで、不器用な片岡の戦いは続く。

【国分泰佐】

星野阪神の挑戦

2002年4月27日付紙面掲載 


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